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《吉田旬佑》会者定離とは〜会う者とは必ず離れるこれ、定め。〜

人は離れる事が定められている。

僕は弓道部でした。

この写真の状態の事を「会」(かい)といいます。

そしてこの状態の次が離れ(はなれ)と言います。

この言葉の語源は仏教の会者定離(えじゃじょうり)という言葉から来ています。

会う者とは離れる事が定め。

そう。

つまり、ずっと会い続ける事は出来ないのです。

必ず全てに終わりが来る。

そして、また次が始まる。

これの繰り返しが人生そのもの、の流れを表しているのです。

人生でこれを経験しない人はいない。

よく似た言葉に「諸行無常」という言葉があります。

全ての行いは常では無い。と言う意味です。

だからこそ、必ず離れる事も終わる事もあるのです。

これもまた宿命です。

もし、人間の中で愛する人と別れた事がない人はいないはず。

そして、産まれてこの方一度も状況が変わった事がない人はいないはずです。

流れのように全てが変わって行くことは人間として産まれて来たことの定めなのです。

占い師として、僕は多くの相談者の方にこの事を説いてきました。

失うことも、離れる事も人間ならば定められており、その摂理は変わることはありません。

僕の父は歯科医、でも宗教は否定出来ない。

僕の父は、大学病院時代に聖路加国際病院の医師、日野原重明先生の講演を聴きに行ったそうです。

日野原先生自身、医学者でありながら宗教観念こそ人の治癒力を上げることを提唱されていました。

今でも、影響力のある著作をたくさん残して下さいました。

医学のみで人は治らない。

でも人には自然に備わった治癒力もあるのです。

科学ではまだまだ未知の領域なのです。

そして、僕はこれまでに多くの奇跡を見てきました。

僧侶時代に出会った奇跡

僕が僧侶時代に出会った奇跡があります。

僕のいたお寺では、眼病平癒の神様がお祀りされていました。

信仰の力で自らの眼病を治したお坊さんがいました。

そして、それらの功績から眼病平癒の神様として信仰されています。

そんな御神霊がお寺にお祀りされていました。

毎日、参拝される高齢のおばあちゃんがそれまで、寝ずに働いて来た心労から目が見えなくなりました。

でもその方は、そのお坊さんの様に、貪瞋痴の三毒を信仰の力で解毒する様にされたのです。

ある日、僕がお勤めをしているとお堂に訪ねて来られました。

「あら!こんにちは!お勤めご苦労さまです!」とお声がけしましたら、

「目が見えるんです!」

と仰りました。

僕は本当に信仰の力で治る奇跡を見せられたのでした。

離れる事も、苦労もきっかけ

詰まるところ、人はこの定めを突破する事は出来ません。

だからこそ、事象を否定的に焦って騒いでもしょうがないのです。

一つの結果を受け入れる。

そして、それ定めであると悟ること。

そうすると、いちいち付和雷同せずに済むのです。

だからこそ、開運の法則として、受け入れる事をすること。

そして、定めを知ること。

この習慣はあなたも周りの人も幸せになります。

 

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